”正しさ”は、立場によって簡単に変わる。

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先日、ツイッターで「かよちゃんを救う会」のリンクがまわってきました。⇒かよちゃんを救う会

1歳の女の子の海外での心臓移植への寄付を募っているのですが、かよちゃんのことだけを考えれば、必要なお金が集まるといいなーと思います。しかし、視点を変えれば、(多額の)お金を払って、移植待ちの順番に割り込むということであり、かよちゃんが移植を受けたなら、誰かの移植が後にずれるってことになります。

寄付は、個人の自由です。可愛い子を助けたいと思います。しかし、立場が違えば、また違った考え方があるんだということは知っておく必要があるなと思いました。

罪を憎んで人を憎まずができるか?

これと同じく、最近話題になった元少年Aの出版。そもそも書いたのが、本当に本人か?という視点も必要とのツイートがあったことは、ちょっと前に紹介しましたが、さらに「言論の自由」「表現の自由」を奪って良いのか?という視点も必要だと知りました。
非難轟々の【元少年Aの手記『絶歌』】で軽視される「言論の自由」と出版の意義

まさにその通りです。彼は彼の言い分があり、「言論の自由」「表現の自由」を有しているのです。それを否定することは出来ません。彼にとっては書くことが自分を正気に保つ方法だったわけです。受け取り手として、本を読むか読まないかの自由があります。

元少年Aと言われる彼は、すでに30歳すぎの大人で、今も社会の中にいます。社会にいる限り、自分で稼いで、自分で生活していかなくてはなりません。生活の糧を得るために色々な苦労をしてきたようですが、それは自業自得です。しかし他人が、それらの権利を奪ってしまえば、彼は生きてく手段が無くなり、また罪を犯して刑務所に入るか、自ら死ぬ以外に無くなります。

彼にも生きる権利があります。表現の自由があります。それを他人が奪うことは出来ません。日本の法律で決められた手順にそって、社会復帰したのです。彼の存在は、まさしく「罪を憎んで人を憎まず」ができるのか?が問われているような気がします。

私達は、普段気にしてないですけど、実は多くの殺人者が社会に解き放たれています。知らないだけなんですよ。殺人は、毎日起こっているんです。ある日、被害者になるかもしれず、被害者の家族になるかもしれないんです。反対に加害者となったり、加害者の家族になるかもしれない。

被害者にも加害者にもならないように努めていても、ある日、唐突に事件に巻き込まれることもあります。自分が、どの立場になるか分からないからこそ、普段から色々な立場で物事を見てみる・考えてみるってのは大事なことだと思うのです。

立ち位置によって、正しさが違う。

かよちゃんの件で見れば、両親、他の移植を待っている方、その両親、かよちゃんを担当する医師、移植を担当する医師、移植や寄附行為に関わる周囲の人々・・・それぞれの立場で”正しさ”が違います。

元少年Aの件で見ても、本人、家族、被害者の家族、社会復帰に関わった大人、出版に関わった大人・・・それぞれの立場で考えも正しさも違います。

こうした違いがあって然るべきで、どの立場からの考えも否定は出来ないのです。それに共感するか否かは、受け取り手である自分次第。どの立場で物事を見るかによって、ものすごい違いが出来ます。「正しさ」は、立場によって簡単に変わるのです。

立場によって「正しさ」が違うってことを頭に置いて、自分なりの「正しさ」を持つことは、自分を守ることにも繋がると思います。

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