生かされている限り、生きるのみ

投稿日:2016/01/17  更新日:

21年前の今日。阪神淡路大震災が起こりました。あの朝のことは、よく覚えてます。まだ暗い朝方。ドンっと下からの突き上げがあり、パチっと目が覚めました。そこからグラグラと揺れましたが、眠気眼で「震度5ぐらいかな~」と思いながら、また寝ました。家の者も誰も起きてきませんでした。

次の記憶は、職場についてテレビが目にはいった時です。建築現場の事務所に派遣されていて、その事務所にはテレビがありました。いつもは昼休みにしかつけないテレビを副所長がつけたのです。テレビに映し出されたのは、崩壊した道路の上にギリギリで止まっていた車の映像でした。「はぁ?何コレ?マジ?」が正直な感想でした。

地震が起こった瞬間と被害の酷さを目にした瞬間しか覚えてません。その後、色々な情報が入ってきましたが、昼も夜も働いていた私は、現実の生活が忙しく、また身近で亡くなった方がいなかったせいもあり、多くの方が亡くなった事実に心を留めることもありませんでした。

目の前の現実は、昨日と何の変わりもなく、神戸での出来事なのに、テレビの中の出来事のような感覚でしかなかったのだと思います。

教訓

今日、NHKで阪神淡路大震災で亡くなった方の死亡原因のことをやってました。40%の方が窒息死だったと。たぶん、地震から数時間は生きていたであろうということでした。

地震の1時間以上経過した後から火災が発生し、そのせいで亡くなった方も多くいたとのこと。火災の原因の多くは、通電火災。停電後、電気が回復したが室内はぐちゃぐちゃで。電気ストーブとかのスイッチが入り、それから引火したりとかが多かったのでは。との見解でした。

また、多くの人が、安否確認のため車で現場に向かおうとしたために渋滞となり、全国から向かっていた救助の車が一般車に阻まれて救助活動が遅れたこと。今になってから分かることが多くありました。

阪神淡路大震災の教訓は、「火災が起きないように、逃げる時にはブレーカーを落として逃げること」です。東日本大震災の教訓は、「海に近い地域・海抜の低い地域は、地震後すぐに高台に逃げること」です。

大きな災害や事件から、必ず何かしら学ぶことがあります。だけど、当事者でない私は、やっぱり机上の空論でしか物事を見てないような気もします。

大型バスの事故で、多くの若い方が亡くなったことが連日報道されています。ニュースを見てると、若い生命の明るい未来が絶たれたことばかりが物語となり伝えられています。運転手さん2人も亡くなっているのに、まるでいなかったような扱い方です。同じ生命が失われたのに・・・。

事故の補償金では、未来の可能性の有無や職業や年齢・性別の差異で金額が変わります。ぶっちゃけ、生涯賃金をいくら稼ぐ予定だったかによって賠償額が変わってくるんですよ。生命に値段がつけられるのが世の中なんですよ。

それが良いとか悪いとかではなく、同じ生命のはずなのに、生命の価値には差があるのが現実ってことです。

死を選ぶ権利は無い

生命の価値の差は、どこで生まれるんだろう?って思うんですよね。また、生死の別れ目は、何なんだろうとも思います。

今回の事故でも、亡くなった方と助かった方がいます。震災でも、助かった方と亡くなった方がいます。ほんのちょっとの何かが違ったことで、助かる生命と助からない生命がある。

そう考えると、やっぱり今を生きてることは奇跡以外何ものでもないなーと思うのです。今日の生きてることは、決して当たり前じゃない。明日生きてることも当たり前じゃない。私は、生きてるんじゃない。生かされているんだ。と強く強く思うのです。

生かされているなら、自ら死を選択する権利は無いのです。死する時は天に任せ、今はとにかく生かされている限り、生きるのみです。

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